佐野厚生総合病院耳鼻咽喉・頭頸部外科 主任部長
大久保啓介
平成16年5月、大学以外の一般病院としては世界で初めてリン酸カルシウム骨ペーストを用いた声帯内注入術を当院にて施行しました。
その後、慶應義塾大学耳鼻咽喉科学教室の協力のもと、慎重に症例を重ねていきました。
現在は片方の声帯が動かない(一側性声帯麻痺)あるいは非常に声帯が痩せている(声帯萎縮)方に対して注入術を行っています。
2023年3月現在、当院でのべ182例に対してこの手術を行いました。
これまでに気管切開を施行した症例はありません。異物反応と思われる声帯発赤は2例にみられましたが、経過中に改善しました。2023年5月現在まで、特に合併症はなく、全例経過良好です。
この手術に関して説明させていただきます。
「声帯内注入術」は、一側性声帯麻痺の患者に行います。声帯麻痺は反回神経麻痺とも呼ばれます。
反回神経麻痺は、肺癌、食道癌、甲状腺癌、大動脈解離、術中の挿管などで生じます。術中に迷走神経あるいは反回神経をやむを得ず損傷することもあります。原因不明のこともあります。
反回神経麻痺がおきると、麻痺が生じた方の声帯の動きが悪くなります。また長期的には、声帯の筋肉が使われなくなるために声帯が痩せてしまいます。
主な症状は嗄声(かすれ声)、誤嚥(むせ)です。
反回神経麻痺のほかに、当院では加齢などによって生じる「声帯萎縮」に対しても状況に応じて注入術を行っています。
普通の大きさの声が出ない、発声時に息が漏れてしまう、声が長く続かない、水がむせてしまう、などが主な症状です。会話中に何度も息継ぎをすることも少なくありません。電話に出るのが怖くなったり、嗄声が原因で仕事に不都合を感じたり、外出を控えたりすることもあります。
また、声帯は動いているが声帯が痩せてしまい(声帯萎縮)、同じような症状に悩む方もいらっしゃいます。
自然に回復することもあるため、半年間は経過観察を行います。その間に、残った機能が代償して、症状が軽くなることもあります。
残念ながら治療によって失われた声帯の可動性を回復させることはできません(一部の例外を除く)。
片方の声帯が動かないと、どうして声が嗄れてしまうのでしょうか?のどを正面からみた断面図の模式図を用いて、簡単に説明します。
どちらも、発声している時の状態を示します。
次のページの上段は、健常者の模式図です。発声時は、両方の声帯がお互い寄り合って、狭い声門をつくります。肺からのどに吹き上げるように送られてきた空気が、狭い声門を通って、声帯を振動させます。
次のページの下段は、一側性声帯麻痺の模式図です。片方の声帯が動かないと、声帯どうしがぶつかりにくくなります。肺からの呼気がもれてしまって、声帯の粘膜振動がうまく生じません。そのために、息がもれたような声になります。また、声門が広くなるために、水などがむせやすくなります。
平成12年6月にリン酸カルシウム骨ペースト(商品名BIOPEX®-R3mLセット)が医療用材料として発売されました。BIOPEX(バイオペックス)は、注入時はペースト状ですが、注入後生体内で初期硬化を経てハイドロキシアパタイトに変化する物質です。ハイドロアパタイトは、骨や歯の無機質主成分です。
ハイドロキシアパタイトは生体親和性が良く、異物反応がほとんどありません。これまでに歯科や整形外科領域などで骨補填剤としての治療実績があり、安全性は確立している物質です。
当時慶應義塾大学耳鼻咽喉科学教室塩谷彰浩講師(現在防衛医科大学校耳鼻咽喉科学講座教授)は新しい声帯内注入物質としてこのBIOPEXに注目しました。大学の研究室で基礎実験を行った後、平成15年8月より臨床応用を開始し、経過観察中全例経過良好であると報告しました。
手術前日に入院します。
手術は全身麻酔下に行います。
全身麻酔後に、喉頭直達鏡という金属の筒を口から挿入して、声帯がよく見えるようにします。
顕微鏡で声帯を拡大して観察します。
声帯の外側に、長い針と注入器でペースト状のバイオペックスを注入します。注入は約10分程度で完了します。出血や腫れがないことを確認して、手術を終了します。
手術当日だけ、発声しないようにします。翌日の朝から発声してかまいません。入院中にCTを撮影します。通常は3泊入院で行っています。
退院後は1ヶ月後に診察を行います。以後は、半年ごとに経過観察を行っています。経過観察中、状態によってCTを撮影します。
反回神経麻痺に対する手術のなかで、現在世界的にもっとも行われている術式は、外切開で行う甲状軟骨形成術Ⅰ型(一式法)です。甲状軟骨形成術Ⅰ型は、一色信彦先生が1970年代に報告された術式です。
声帯内BIOPEX注入術は喉頭の内腔から操作を行うため、一式法とはアプローチ方法は異なりますが、「麻痺している声帯を、人工物質を用いて外側から押して正中移動させる」という考え方は非常に似ています。
我々は声帯内BIOPEX注入術を「喉頭内腔から行う甲状軟骨形成術Ⅰ型」と考えております。
声帯内BIOPEX注入術の導入によって、我々の悲願である「手術中が楽で症状が治り、効果が長く続く」手術が現実のものになりつつあります。
術翌日から発声、摂食、退院が可能です。外切開を行わないことと、術中の苦痛が全くないこと、術後の気管切開の危険がほとんどないことは、本術式の大きな利点と考えております。
一般的な手術は、甲状軟骨形成術Ⅰ型(一色法)や、披裂軟骨内転術を中心とした頸部外切開による方法と、喉頭の内腔から操作する声帯内注入術に大きく分かれます。どの術式にも優れた利点があります。
手術の基本的な考え方は、麻痺側の声帯を、発声しやすい位置に移動させる、あるいは声帯自体を膨らませて、発声しやすくすることです。手術によって声帯が動くわけではないので、対症療法といっても良いかもしれません。
当院では現在、外切開による手術を行っておりません。
一般的に、頸部外切開による手術は局所麻酔下に、患者の声を聞きながら声帯を適切な位置に調整できるため、より良い音声を求めるのであれば外切開による方法が一番良いでしょう。
一度手術を行えば、効果が長期に安定して持続します。
通常は局所麻酔下に行います。のど仏のあたりを切開して、実際に声を聞きながら手術を行います。声帯を適切な位置に移動させて、声帯に適度な緊張を加えます。
外切開による手術は、限られた施設で行っているのが現状です。甲状軟骨形成術、披裂軟骨内転術を積極的に行っている施設の多くは、この手術のことをホームページで詳しく紹介しています。外切開による手術を受ける際には、当該施設のホームページをご参照下さい。
当院では現在、BIOPEX以外の注入物質を取り扱っておりません。
声帯内注入術は歴史が古く、1911年にはBruningsがパラフィンによる声帯内注入を報告しております。その後ワセリン、骨ペースト、テフロン、シリコン、脂肪、コラーゲン、ヒアルロン酸など、現在までに国内外でさまざまな注入用材料が用いられております。
現在我が国では自家脂肪、アテロコラーゲンなどが注入用物質として広く用いられております。
自家脂肪は生体にとって異物ではなく、安全な注入物質と考えられます。注入された脂肪が自然吸収される割合も少なくないため、いかに吸収を少なくさせ、治療効果を持続させることが課題となっております。
アテロコラーゲン注入術の最大の利点は外来局麻下で注入できることです。コラーゲンが組織内へ吸収されやすいため、複数回注入することも少なくありません。
シリコンは注入術として非常に有用な物質ですが、安全性、その他の面で、現在は使用できません。
真に理想的な注入物質は21世紀になってもまだないと言っても過言ではありません。声帯内注入術の歴史は、すなわち注入物質の歴史ともいえます。我々は常に「理想の注入物質」を模索し続けています。
声帯内注入術といっても、注入材料によって注入部位はやや異なります。
声帯内BIOPEX注入術は、ペースト状のBIOPEXを実は声帯内ではなく、声帯の外側に注入します。すなわち、音声にもっとも大切な声帯そのものには手術による侵襲を加えない術式という点が大きな特徴です。
BIOPEXは注入後の吸収が少ない(ただし長期に経過観察する必要があります)ため、吸収される分を見越して過量注入することがほとんど不要です。過量注入による音声悪化のリスクが少ないことが大きな利点と考えています。
声帯外側に硬化性物質を注入し、声帯の内方移動を図る注入術は我々の恩師である慶應義塾大学の斎藤成司先生、福田宏之先生が中心となって、1960年代に室温硬化型シリコンを用いてすでに実用化しております。注入物質が違うだけで、基本的な考え方は現在も変わっておりません。
BIOPEXは骨条件CTに鮮明に描出できるため、3次元CTを作成すれば、どこに注入されているのかをわかりやすく描出することができます。3次元CTは術後評価だけではなく、再注入の時にも貴重な情報を与えてくれます。当院では放射線科スタッフの多大な協力により、BIOPEXの3次元CTを迅速に作成することが出来ます。3次元CTの一例を示します。
一側性声帯麻痺(反回神経麻痺)
声帯萎縮(嗄声、飲水のむせでお困りの方)
遠方から当院での治療を希望される方は、可能な限り来院の負担を少なくし、術後経過観察も最少になるよう心がけます。しかし本来機能改善術はその性格上、術後の経過観察が必要です。紹介状がなくても拝見しますが、お越しの際は近くの耳鼻咽喉科医師による診療情報提供書(紹介状)をご持参ください。
なお、本術式導入に対して佐野厚生総合病院倫理委員会にて審査・承認されております。
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